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御蔵菅原北行きバス停に屋根がつきました。
御蔵菅原北行きバス停に屋根がつきました 
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地元の方からの強いご要望を受け、近隣の方の同意もいただき、神戸市交通局に陳情してまいりました。

このたび、立派な屋根が完成いたしました。

地元の方から、 「これで、雨の日や日差しの強い日に、遠慮しながら他所の軒下を借りんでもすむようになった」 と大変喜んでいただきました。
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by kitayamaj | 2010-05-20 20:07
沖縄普天間問題について
官選最後の知事、島田叡(あきら)さんの後輩の意見
普天間基地の移設については、我が国が機軸とする日米同盟や国民の安全など国益の観点から、また沖縄県民の生活の安定と質の向上の観点から、長年にわたり自公政権下において、世論に真摯に耳を傾け、あらゆる角度から慎重な検討がなされた上で、戦略的外交が展開され、日米合意に至ったものであります。

しかし、昨年の総選挙で政権を奪取した民主党は、代表である鳩山さんが選挙前に沖縄遊説に訪れた際に、民主党が政権をとった暁には、普天間基地は最低でも県外移設すると沖縄県民に約束をいたしました。このことにより日米合意の見直しの議論がなされることになりました。蓋を開けてみれば移転先の目処や腹案などは全くなく、口からでまかせを続け、いよいよ切羽詰ってきたら開き直り、どうしようもなくなったら謝るといった、まるで駄々っ子のような顛末。綸言汗の如しといいますが、これが私達の首相というのはあまりに寂しい。
私は、昨年来、この間の議論を注視してまいりましたが、現状のまま推移いたしますと、我が国の国益を大いに損なうことはもちろんのこと、結果次第では最も大きな痛みを被るのは沖縄県民であることを、まずは再度認識する必要があります。そして、我が国、並びに地域の平和と安定に資することを目的とした日米同盟関係への影響は、計り知れないものがあります。そこで私は、このような状況を憂えるだけではなく、国益を守るとともに、沖縄県民にとっても最も有益と考える対案をご提言申し上げたいと思います。

それは、自公政権時にも検討されていた構想でありますが、沖縄に自然科学系の世界最高の研究・教育水準を有し、またその中心にはライフサイエンス分野の進展を含め、世界の科学技術の発展に寄与し、そして沖縄をアジア、太平洋地域の先端的頭脳集積地域として、その経済的自立を図ること等を実現する大学院大学を設置するものです。そして私が考えておりますのは、先端医療に特化した、これまでに例を見ない特区を普天間基地内に設定し、日本政府の建設費負担と一定の維持費負担のもと、米国の医療系大学ないしはトップレベルの医療系研究機関を誘致するとともに、日本国民に医療による恩恵をもたらすことに加え、特に沖縄県民に大きな優遇策を付与するものであります。具体的には、極めて広大な普天間基地内のー角に、世界最先端の医療研究施設と臨床施設を併設し、現在欧米でしか受療できない臓器移植手術といった医療機能を提供することを可能とするものです。この医療に対しては、米国はもちろんのこと、欧州やアジアの富裕層の患者を呼び込むことにより、沖縄振興策の新たな大きな柱の一つとして成長させることも可能となります。また、欧米では認可されているものの、日本では未認可となっている医薬品による施療や研究を可能なものとするものです。
現基地内で米国の医療機関による施療を可能とすること、当該施設において医薬品等の取り扱いに特例措置を設けること、医系研究者の滞在や赴帰任に特例を設けること、また世界的な合同研究を円滑に実現し、日米欧の最先端医療の最たるものを実現すべく、全世界で唯一無二の規制緩和ゾーンとなる世界医療特区とすることにより、我が国の医療の発展と国民の医療ニーズに大きく貢献することが可能となります。また沖縄県民に対しては、受療費用を国内受診と同等の取り扱いとする画期的な優遇策を合わせて付与するものです。

皆様もご存知の通り、神戸市では次世代スーパーコンピューターの活用等により、医療産業都市構想を完成させるべく全力で取り組んでおります。この構想の実現により、神戸市民の健康や福祉の向上、そして神戸経済の活性化に極めて大きく貢献することはもちろんのこと、世界の中で、我が国がライフサイエンス分野における科学技術の進展を大きくリードすることが可能となります。我が国が21世紀における科学立国として、特にライフサイエンス分野において世界をリードしていくためにも、神戸と沖縄は共に協力し、時には厳しい競争のもと、常に健康という人々の永遠の夢の実現のために頑張ってまいりたいと考えております。

以上により、我が国の国益を守り、医療による世界への貢献、そして沖縄地域の振興と沖縄県民の福祉の向上といった観点から、政府は―大決意のもと、普天間基地の継続に舵を切ってはいかがでしょうか。我が国をこよなく愛する一国民として、また沖縄に自らの命を捧げた島田叡元知事の思いを汲む者として、政府に対して一念発起し、思いの丈を申し上げるものであります。


島田叡(しまだあきら)
c0148581_12175940.jpg 1901年(明治34年)、神戸市須磨区の開業医・島田五十三郎の長男として生まれた。旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)、第三高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法科へ入学。中学・高校・大学と、野球に熱中し、東大時代は神宮球場のスター選手として活躍。
 東大卒業後、1925年(大正14年)に内務省に入省する。主に警察畑を歩み、大阪府内務部長を務めていた1945年(昭和20年)1月10日、沖縄県知事の打診を受け、即受諾した。

 
 1945年 1月31日。アメリカ軍の上陸が間近に迫っていた沖縄に、県知事として赴任してきたひとりの男がいた。待ち受ける運命とは正反対に、美しく青く光る海を越え、沖縄に到着した飛行機。
 空港に降り立ったのは、まだ青年の面影が残る、当時43歳だった島田叡(しまだあきら)。当時の県知事は国が任命して派遣する「官選知事」だった。
 大阪で内政部長をしていた島田叡は、沖縄知事への就任を要請され、その任を受けた。第二次世界大戦末期の日本の置かれていた状況を考えれば「県知事として沖縄に行ってくれ」という命令は「沖縄で死んでくれ」と言われているのと同じようなものだった。
 家族の反対を彼はこう言って説得したという。
「自分が死にたくないからといって、誰かに『代わりに行って死んでくれ』とは言えない」
アメリカ軍の上陸が始まり、地獄の戦場と化していく沖縄。降り注ぐ砲弾を避けて暮らす壕の中で、島田知事は少しでも多くの県民の命を救うため、最後まで行政機能を維持しようと奔走した。
 島田知事、そしてともに働き殉職した県庁職員たちの魂は、摩文仁(まぶに)の「島守の塔」に眠っている。
 戦場の県知事、島田叡。彼のわずか5ヶ月足らずの沖縄での行動が「沖縄の島守」として、戦後多くの県民に慕われ続けているのはなぜなのか?
 彼は沖縄戦という地獄の中で、何を思い、県知事としてどのような行動をとったのか?そしていまだに謎とされている島田叡の最期とは、一体どのようなものだったのか?

 第12回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『悲しいほど海は青く 沖縄戦 最後の県知事 島田叡』(制作 沖縄テレビ) 参照
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by kitayamaj | 2010-05-10 12:15